
「すごい!」
私は30メートルほどある巨大な松の木を見上げた。陸前高田市には350年に渡って70,000本の赤松と黒松の林が育っていた。防風林として海沿いに植えられたものだ。日本で最も美しい日本百景の一つだった。しかし、津波ですべてが流されてしまった。ただこの一本を除いて。
「行くのがこんなに大変だったとは!」とルカは言った。彼女は石巻でのコンサートのためにともに活動していた音楽家の一人だ。私たちはこの木を見るために一時間ほど道のない泥の中を歩いていた。「津波はこの地域を破滅したね。そして私の靴も。」彼女は足元を見ながら言った。
見渡す限り、広大で荒しい泥の景色だった。すべての木、建物、道がなくなった。10メートル以上の津波は、高田松原を含め、無情にすべてを流した。すべては、海の奥底からの重い土砂で埋められた。
もう一度、松の木を見上げた。70,000本の松原も公園の木も流された中、この「奇跡の一本松」だけは、そこに残った。津波の信じられないぐらいの力に抗い、どうにかこの木は立っていた。
数年後に、またこの木を見に行った。私は新しく修復された沿岸高速道路を通って、音楽家の仲間たちと共に次の避難所に向かっていた。辺りはもう暗くなっていたが、町の外れからもその木が見えた。見逃しようがなかった。スポットライトが、闇の中で希望の灯としてその木を照らしていたからだ。
よく見ようと車を止めた。花やベンチや新しい広い遊歩道をもつ美しい公園が木を囲んでいる。今や、日本中でこの話は知られるようになり、この松は日本で一番有名な木になっていた。津波で土に残った塩のせいでその木は枯れてしまったが、保存処理された木がモニュメントとして立てられている。復興と勇気と希望の素晴らしいシンボルだ。夜空に輝く一本松を見て、私はとても感動した。
私は、天の都にあるいのちの木を思い浮かべた。その木はどういう木だろう。この松よりはるかに高いのだろう。巨大で遠くからでも見えるのだろう。そして神の光に照らされているのだろう。
「御使はまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。……もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。」(黙示録22:1−2, 5)
私はまた、十字架について考えた。
「人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。」(使徒10:39−40)
松が陸前高田を守るため植えられたように、十字架の木は私たちをこの世の嵐から守ってくれる。十字架は私たちの癒しと命の源だ。
十字架は、私たちの罪と泥にしっかりと根ざして、壊れた世界を希望の光として照らしている。十字架は、私たちの荒らされた世界の真ん中に、神がいつも私たちと共にいることのシンボルだ。神は私たちの痛みと苦しみの中にいつもいて、私たちをいつも守ってくださる。私は、闇に照らし出された奇跡の松を見て、そんなことを思いめぐらした。
In the cross of Christ I glory,
towering o’er the wrecks of time;
all the light of sacred story
gathers round its head sublime.キリストの十字架が私の誇り
時が経てば壊れてしまう世に建つ
聖なる福音の光が
十字架の周りを照らす“In the Cross of Christ I Glory,” John Bowring, 1825(日本語訳は筆者による)