やめよ。知れ。

April 13, 2020Roger W. Lowther

天井がミシミシいう音がして目を開けると、辺りはまだ真っ暗だった。
「何の音?ここはどこだ?」
寝ぼけた耳に誰かの叫び声が響いた。「逃げろ!大きいぞ!」
ぱっと目が覚めた。いつも枕元においてある懐中電灯を手探りでつかみ、ジャケットを拾った。床がグラグラ揺れていてまっすぐ立っていられなかった。なんとかドア枠にたどり着き、つかんで外に押し出した。
風はひどく寒かった。闇の中で古い建物が揺れる音がしていた。私はそこに立ち、ボランティアの仲間たちと一緒に、待つしかなかった。気づくと私の右足はびしょ濡れになっていた。
「あーあ、水たまりに突っ込んだんだな。」さっきまで夢の世で暖かく幸せだったのに。今は濡れて寒く暗い中に立っている。ああ、もう、いったいいつになったら終わるんだ。
東日本大震災から1か月が経った4月。私たちは毎日余震の容赦ない攻撃に襲われていた。こんなにたくさんあるとは思わなかった。通常の生活では(通常の生活ってなんだ。そんなものは存在したっけ?)、小さい揺れがあるだけで「あ、地震だ」となる。しかし、今は数えきれない状態だ。小さい余震が次々と起こった。しかし、それでも、「大きな」ものに比べれば何でもなかった。
私は学んだ。地震は体を揺さぶるだけではなく、中身も揺さぶる。精神、感情を脅かす。
私は気が休まることがなかった。いつも何かをしていたかった。アドレナリンのレベルは決して下がらないようだった。そしてとても心配症になっていた。
「私はどうなったんだ?」私は自分に何回も声をかけた。「落ち着いて。心配しないで。」
普段私はこんなじゃないのに。肉体的にも精神的にも私はすっかりまいっていた。そしてそれにうんざりしていた。「地震!」「逃げろ!」「窓から離れろ!」という叫びにうんざりした。何かが頭に落ちてくるのにうんざりした。ドアに向かって走るのにうんざりした。トイレのための穴を掘るのにうんざりした。水道水がないことにもうんざりした。私は大きい声で叫びたかった。「もういい!やめてくれ!十分だ!」
私はもう一つ学んだ。私たち人間は手に入れるのが不可能なものを望んでいる。動かない何か。変わらない何か。信頼できる何か。しかし、そんなものはない。私たちの足元の地面さえ…いや、特に足元の地面こそ信頼できない!私たち人間は、しっかりと立つ場所を望んでいる。揺るがない場所を。しかし、そんな場所はない。
そして、御言葉を思い出した。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。」
この言葉を何回も聞いたが、もはやその意味が分からなくなった。

神は われらの避け所 また力。
苦しむとき そこにある強き助け。
それゆえ われらは恐れない。
たとえ地が変わり
山々が揺れ 海のただ中に移るとも。
たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても
その水かさが増し 山々が揺れ動いても。…
「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:1-3, 10)

詩篇46は恐ろしいものでいっぱいだ。地震。山崩れ。嵐の海。この揺れと破壊の中で、神の「やめよ」という命令は馬鹿げている。「静まれ」という訳もある。何を言っているんだ。すべてが崩壊しようというとき、誰がやめられる?静まることができる?倒壊の恐れがない避難所はどこにあるのか。津波に飲まれない避難所はどこにあるのか。目に見えない放射線から体を守る壁はどこにあるのか。
いったいどこに?
もう一度その詩を読んでみた。

「神は われらの避け所 また力。
苦しむとき そこにある強き助け。」(詩篇46:1)

私は気づいた。この詩は私たちにまず「やめよ」と言っているのではない。「そこにある助け」と詩は最初に語っている。英語では「ever-present」、「ずっといる」ということだ。どうしてその部分を見落としていたのだろう。神は普遍で、私たちがどこにいても私たちと共におられる。「私たちは神の中に生き、動き、存在している」(使徒17:28)。神様から離れることは絶対にない。これが私たちの基礎だ。
詩人は7節で、そして最後の節でも繰り返す。

「万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。」(詩篇46:11)

詩人は苦しみの中で激しく祈っている。
神はインマヌエル、「私たちとともにいる」方だ。私たちは一人で立たなければならないのではない。神は私たちの砦であり、私たちはそのしっかりとした基礎の上に立つことができる。神が「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(10節)と言うのは、いつも私たちとともにいるからだ。神は「地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移る」ときもそこにいて、私たちのあらゆる危機の中にいてくださる。神は、イエスが死んだときの地震(マタイ27:51)にも、復活したときの地震(マタイ28:2)にも、そこにいた。
神の声は、津波警報を知らせるサイレンよりも大きい。そして神の耳は、悲劇を前にした私たちの声にならない叫びも聞く。世界が崩れていくときも、揺れと恐怖の中でも、神は私たちを安全な所へ導いてくださる。倒れない砦に。防護壁の内側に。難攻不落の避難所に。
神の臨在は慰めだけでなくもっと素晴らしいものをくださる。すべての揺れを鎮めてくださる。そして私たちは恐れるのをやめ、神を知り、そしてこの御言葉のもとで安らげるのだ。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。」

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